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旭山動物園園長 坂東 元 聞き手 枝廣淳子 Interview15

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水中を飛ぶように泳ぐペンギンやアザラシの視点から見るホッキョクグマ、高さ17mの塔を綱渡りで移動するオランウータンなど、動物の生き生きたした姿が観察できる「行動展示」で有名な旭山動物園。

動物のありのままの生活や行動、しぐさの中に「凄さ、美しさ、尊さ」を見つけ、「たくさんの命あふれる空間の居心地の良さ」を感じて欲しいという理念を掲げています。

この時代における動物園の果たす役割とは?坂東園長にお話をお聞きしました。

自然を感じられる場所で気づいてもらうこと

枝廣:
環境問題がいろいろ大きくなってきて、世の中の関心が高まっている一方、自然破壊や温暖化も進んでいます。そういった状況の中で、動物園の果たす役割とは何でしょうか?
坂東:
僕らの日常生活の中で、自然を感じることが、すごく少なくなっています。特に都会の人はそうだと思います。でも、現実に、大変豊かな生活が成立している。一方で、知識として、「環境破壊」や「絶滅危惧種」など、言葉としては聞いています。でもたぶん、実感がない。何となく、「どうにかなるんだろう」と、あまり危機感を持っていない人が大半だと思います。
その中で、自然を感じられる場所として、動物園の存在意義は大きくなってきている。昔の「動物が見られればいい」というのとは違う意味での存在意義ですね。特に、動物園で働いている僕らは、いろいろな生き物に興味があるので、その危機感はおそらく、普通に生活している人よりは強いと思います。みんながまだ気づいていない、あまり切迫感を持っていないことに、僕らは先に気づいている。そういうものを察知して、たくさんの人に気づいてもらう可能性のある場が動物園です。
なぜ気づいてもらえるかと言うと、そこに剥製じゃない生き物がいるから。存在として、そこに生き物がいて、現実にそこで生きている生き物がいて、彼らの未来は見えない時代になっていますよ、と。そういう場としての役割なのだろうと思います。
だけど一方で、動物園に足を運んでくれなかったら伝わらない。どうやって足を運んでもらうか。動物園に来たときに、感動がどこにあるのか。動物園はしょせん人間がつくった場所です、だけど、それがないと、普通の人が知るきっかけがないという意味では、「自然を知る玄関口」だと思います。足を運んでくれた方々に、今動物たちが置かれている状況や、人とのかかわりをちりばめながら、押し付けではなくて、「あ、そうなのか」と気づいてもらうこと。それが一番大きな、動物園の役割になっていかないといけない。
枝廣:
「自然を感じる」というのは、どういうことなのでしょう。
坂東:
難しいんですよね。たとえば、「トラが絶滅危惧種です」ということは、小学生も知っています。だけど、実際にトラという生き物が生きているという感覚は、いくら本を見ても映像を見ても分からないと思います。「本物って何?」ということだと思う。「映像のトラだって本物じゃないか」と言われるけれども、そこに生きていることが確認できるのは動物園ですよね。そこに生きていて、何か自分がした行動に対して、ふっとこっちを見てくれる。においもあり、鳴き声もあり、個体同士の関係もあり。映像と違って、予測できない動きをする。その存在が確認できる場所。本当の生き物としてそこに存在しているということ。そのことが動物園のポテンシャルじゃないかな。自分がちょっとやさしくなれる場所かもしれないし、いとおしさだとか、そういうものを感じられるんじゃないのかなと思っています。
よく、「動物園なんて、なくてもいいんじゃないか」と言われますが、動物園がなくても、日常の生活の中でふっと、「アフリカにいるゾウ、今日は元気かな?」というように、みんなが感じて生きているんだったら、きっとこんな社会にならなかったし、こんな環境にはならなかった。そうなれるのだったら、動物園はなくてもいい。
でも、そこにいる命がある。たとえば旭山で誕生した命があります。その成長を見守って、その中から、彼らの野生のふるさとはなくなろうとしていますよ、そのことから僕たちみんなが恵みを得ている時代になっていますよ、と。そこではじめて、他人ごとではなくて自分ごとになるんじゃないのかなと思うのです。

動物の「社会」にも機能とルールがある

枝廣:
子どもが小さい時に、動物園に連れて行ったときにもオオカミがいたと思うのですが、だいたい向こう向いて寝ていましたね。動かないので、剥製か映像でもいいぐらい。でも、今日の旭山動物園のオオカミたちが、こちらを見た時は、怖かったですね。 「存在を感じる」とおっしゃった、その命を感じました。今の社会は、人間同士でも命を感じることなく過ごしていますよね。
坂東:
「社会」じゃなくて「集団」になっている。「かかわりを持たないで維持しよう」という考えといえばよいのかな。昔は、かかわりを持って互いに理解しながら、けんかもしながら一緒に暮らすというのが基本的に社会だと思っていた。でも今は、かかわりを持たないで密集した数を維持していく。「社会」としての機能はほとんどなくなっているような気がします。
枝廣:
そう思うと、今日、オオカミたちが遠吠えする前にじゃれ合っていましたが、あれはじゃれているのですか?
坂東:
じゃれもありますが、それは厳しいですから。そのときそのときで、群れの中での順位が微妙に変わるんです。でも、それ以上はやらない。ルールがしっかりある。けんかのルールがあるんです。
枝廣:
社会ですね。
坂東:
完全に社会です。仲良くだけじゃないことを伝えたくて。「仲良く」だけで生きている生き物はいない。「理解し合おう」という努力があって初めてできる。
たとえば、オオカミは野生では増えすぎない。オオカミがいて、食べられる動物はシカです。シカは1年に1頭しか産まないのにシカのほうが数が多い。オオカミは1回に6頭も8頭も産むわけです。そうしたら本当は......
枝廣:
食べ尽くしちゃいますね。
坂東:
そう。おかしいですよね。シカは1年に1頭しか産まないのに、そんなに減っていかない。オオカミは、8頭産まれたら8頭全部が大人になれるわけではないんです。多産の動物はたくさん死ぬから多産なんです。それは何かと言うと、オオカミ同士です。そんなに生やさしく生きている生きものなんて、本当はいない。オオカミ同士だからこそ、縄張りを守らなきゃいけないし、そこから闘争が生まれてくる。
シンリンオオカミは「オオカミの森」と呼ばれる放飼場で飼育されている。「エゾシカの森」と隣接していて、100年前の北海道の自然を感じ、今害獣とされているエゾシカとそれを絶滅に追いやったオオカミとの関係を考え直すことのできるように展示されている。

シンリンオオカミは「オオカミの森」と呼ばれる放飼場で飼育されている。
「エゾシカの森」と隣接していて、100年前の北海道の自然を感じ、今害獣とされているエゾシカとそれを絶滅に追いやったオオカミとの関係を考え直すことのできるように展示されている。

オオカミは、親の保護下にあるうちはほぼ100%死なないです。群れがしっかりしていますから。でも、1歳、2歳になって、群れから出ていきなさいとなると、ほとんど生き残れない。ほかの群れのテリトリーに入ると、そこから追い出されるし、下手すると殺される。単独では大きなシカは捕れない。パートナーもちゃんと見つけないといけない。
すごくたくさんのいろいろなハードルがあるんです。どの動物もそうです。ライオンもそう。ライオンの雄で10歳を超えるなんて、野生下ではほぼいない。ピークを越えたら自分の群れは持てない。だから、それまでに自分の子を残せるかどうかが勝負です。厳しいんです、生きるということは。
枝廣:
翻って人間同士のかかわりを考えると、「かかわりを持たない」か、「仲がいい」か、「けんかしている」か、それぐらいに分かれちゃいますね。
坂東:
そうでしょうね。僕ら、ヒトの可能性は言葉を持つところだと思います。過去を伝えられるし、未来を伝えられるし、言葉で考えられるから。動物には言葉がないから、僕らのように理屈を持って考えられない。だから、その瞬間、瞬間を積み重ねていく。だから、「今を一生懸命」というのは、僕らの比じゃないと思います。
でも、僕らは言葉を持って、こういう高度な社会を持っているのに、ところが今、自ら放棄し始めている。そういう時代に入ってきている。僕たちはどこへ向かうのだろうと思います。環境問題もそうです。人の心にゆとりがないと、ほかの生き物なんか守れっこない。ピリピリすれば、地域なんて守れないし、自分のことしか考えられなくなる。今、そういうふうになってきているから、難しいなと思います。
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